商業主義と大衆文学と純文学と

福岡ポエイチに小さな事件が起きていたので、番外編的な話で書かせて頂きます。

 

「文学だけで食っていきたいか?」事件

第2回福岡ポエイチ初日。イベント終了後に参加サークルのみなさんと一緒に打ち上げに行きました。
霧谷のあは、完全に出来上がってしまい「他の文芸人と仲良くしてくる!」と意気込んで他参加者のもとにいそいそと遊びに行ったのです。
事件はその時起きました。

「文学だけで食っていきたいか」

詩人のたまり場で、ふとそう言い出す人が現れました。後に分かりますが、彼の名前は森井聖大さんで、文芸サークル「何故?」(現在活動休止中)の主催者でもあります。文学フリマの常連さんです。
詳しい話は彼のブログに掲載されています。
彼は言いよどむ同人作家に以下のように続けます。

「本音はみな同じでしょ?それなのに、それができないからと自らに詭弁を用いる。私は、たとえそれができなくとも、本音の部分にうそはつきたくないので、あえて言っているだけです」
「なぜ売れないんでしょうか?」
森井聖大ブログ-文藝無宿-より)

霧谷のあ氏は「何て答えたか覚えていない」との事ですが、まぁまた吃驚する質問を投げかける人が居る者だな、と思いました。

ちなみに、BARラジカルで同じ質問を受けたという、文芸同人作家の牟礼鯨さんは、ブログで下記のように述べています。

森井御大が商業誌を目指すのは、長年同人誌をやってきて嫌になったからと云う。それは同人誌が商業誌の下部組織でしかないことに我慢がならないからだ。そこで一度森井御大自身が新人賞などを取って名を上げてから文学フリマに戻ってくる。そして大塚英志が掲げていたように、既存の出版業界に並ぶ対等な市場として文学フリマを有力作家森井御大が活性化していく。つまり文学フリマ全体が文壇的なものと対立するものとして一致団結し、もう一つの文学の市場を樹立するために運動をしなければならないというものだった。不遇な時代が長くて御大も日和ったなと思った。
御大は「鯨も商業誌を目指せ」と言ってくる。まるで技量がなく努力もしないくせに名声だけは得たい我が儘な屑どものように
(ブログ「西瓜鯨油社」より)

うおぅ、辛辣だ。この文章を当の森井さんが見るかもしれないブログで公表してしまう牟礼鯨さんは、随分と肝が据わった人だなと思います。

 

文芸に対する姿勢

第2回福岡ポエイチで、他文芸作家と交流をしているとき、度々文芸に対する姿勢について、根本的な違いを感じさせられていました。

(1)個人か集団か

文芸サークルとはいえ、参加サークルは一人で行う個人サークルが多かったです。度々「集団で文芸をやるなんて珍しい」「楽しそうで羨ましい」という言葉をもらいましたが、また不思議な事を言うものだなと私は思いました。

明治・大正の時代に「白樺派」「アララギ派」と呼ばれる文芸団体があったように、さきがけ文学会もまた「さきがけ派」という文芸思潮を備えている団体だと私は考えています。

じゃあその「文芸思潮」とは何ぞや?と聞かれると、今の時点ではこれと言った答えは出せていない訳ですが、少なからず私の編集の元で作品を掲載してくれている作家陣の方は、私が言わんとしている事を、言葉以外のもので理解してくれていると感じています。

(2)さきがけが唱えている文芸思潮

上記でもあるよう、明言できるものは未だ推敲中な訳ですが。現時点で言えるのは「自分の『心』をより忠実に、確実な日本語で表現できるようになること」です。
だから、絵や音楽等の活字以外の媒体に頼る癖をつけて欲しくないし、何度も何度も書くことを辞めて欲しくない。
ピアノを一度も弾いた事ない人間にショパンが弾ける訳がない。
ピアニスト達は天性の才能だけでステージに立つのではなく、その背景には1日10時間以上もの練習を重ねた結果にあるのだという事を忘れて欲しくない。
書かなければ伸びない。書かなければ使いこなせない。
何も「あれこれこういうやり方で表現しろ」と言っている訳ではない。

勿論、表現の仕方には個人差があると思います。
とりあえず「あなたの作品は、あなたの伝えたいことを最もふさわしい日本語で表現できたと思いますか?」と問うた時に「はい」と堂々と言えるようになったらいい。
それが私の理想です。

ちなみに私は上記の問いに「はい」とは答えられません。「いいえ、ゴミみたいな作品ばかり書いてしまいました」と答えます。
私の命が途切れるまでに、一体どれだけ日本語と自分の心をシンクロさせられるか。私はただ単純にその結果が見てみたいだけなのかもしれません。

さきがけ(もしくは晨鶏スタイル)が注目をもつは、真の高みに上り詰めようとする挑戦意欲と、その挑戦や努力を苦痛と思わず、自分の心の中に取り込もうとするメンバーの貪欲さ、自由さ、楽しんでいる姿が評価されているのではないかと思います。

私たちはその姿を持って「文芸とは何か」を、間接的に読者に伝えています。少なくとも私はそう思っています。

(3)売れるか売れないか

割とどうでもいい!

森井さんの事件は「そんなこと気になってんなら、もう同人の世界から出て行け!」と言いたくなるほど、私のポリシーに反するものだったと考えています。のあ氏も何か言い返してやれば良かったのに!ええい、歯がゆいのう。

「文芸の在り方を問い続ける事≠大衆に受けて売れる事」ではないでしょう。お金や名声よりも、せっかく同人をやってるなら、商業作家よりももっと自分の文芸としての在り方にもっと貪欲になりたいです。
ちなみに私は文芸に関して、とても貪欲です。
書き続けるばかり「体育会系だ」と揶揄され、多岐に文芸を広げて作品濃度を薄いと言われても。私はそんな事が作品のレベルを低下させるとは思っていません。
三行詩で良い表現方法と、詩で良い表現方法と、俳句と、短歌と、散文と、企画ものと。全てのジャンルに共通する「良い表現方法」って無いんです。全部違うんです。だから全部やってみるんです。ありとあらゆる表現方法をやってみて、考えて、身に着けて、自分に一番相性のいい表現方法を見つけて欲しい。それが「成長すること」でしょう。
今のさきがけメンバーが、創刊当初よりもずっとずっと作品のレベルが上がり続けているのが良い証拠じゃないですか。
私は、未完成な文芸人であり、この命尽きるまで、どこまでも成長し続ける文芸人です。
私は売れる事よりも、人気者になることよりも、もっともっと大切なことを訴えています。

あ、でももちろん「面白い」「レベル高い」って言ってもらえるもはとても嬉しいんです。
けど、そればっかり目がいってたら、何の為に作品を書いているのか忘れてしまいそうで怖いのです。
自分の心が書けなくなるというか、最悪、お金や名声を欲する欲望をそのまま書いてしまいそうで。未熟者ですから。

この世の誰よりも日本語を使いこなし、自分の心を最も近い日本語で表現しきった時には、その作品は、内容に関わらず日本中の人に大きな影響を与える事ができると思うのです。
『心』は必ず『心』を打ちます。相手が心動かさないのはそ、共感性が何たらとかじゃなくて、単に自分の表現力が未熟で、自分の作品は文字の羅列であって心ではなかっただけだ。
私が書いているのは、フィクション・ノンフィクションに関係なく、私の「心」であり、商品ではない訳で。
ああくそ、うまく書けないな。

何が言いたかったのかと言うと、私は自分の文芸に対する価値観を、世界で最も正しい価値観だと思っていて、それが認められないのは、ひとえに私が未熟で、かつ世界が頭の固いわからんちんだからだと思っているという事です。

 

さきがけ文学会に所属して作品を書く以上、その作品が素晴らしいものであることは、この私が世界の誰よりも信じている事です。

今後、また商業主義とか訳わからんこと言って、作品や文芸に対する姿勢を非難されるような事があったら、私を呼んで下さい(゜Д゜#)ひっぱたいてやる!言葉の手で!

以上。むしゃくしゃした記事でした。

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